特に、仏教を信仰しているわけでもなく、
神棚に柏手を打ち、一礼二拍手一礼するけれど、
特別に特定の神道の信者というわけでもないワタシ。。。
お守りのメダイユを首から下げているものの、キリスト教徒でもなんでもなく。。。
私に限らず、日本人の多くがこういう感じなのかもと思うし、
(でも、何か宗教の敬虔な信者の方が、
私のこういう文章を読んで、気分を害したとしたら申し訳ないですが)
それを外国の人達が奇妙なものに感じるのはそうだろうと思うけど。。。
何かの教えを遵守するとか、信者たるものとか、
特別にそういうのがなくとも、
仏さまに手を合わせたり、神社に行けばお参りをする、
そして、人にも物にも、山や川、海、自然も大事にすることが、
日常の中に、生活の中に普通に入っているから、
書かれた書物の文言に囚われないんだと思うけど、
なかなか、外国のクリスチャンの友人にはそういう部分が伝わらないところがある。
どう説明をしていいか、うまく伝わるような言葉もみつからない。。。
仏教というものを考えると、
お通夜やお葬式、法事など、特に、熱心な信者でなくても、儀礼的に行ったりとか。
(もちろん、神道式もあるけれど、これは経験がないのでわからない。。。)
そうかと思うと、お正月は神道の行事だし、お盆は仏教。
仏教でも色んな宗派があって、概念も違って、
実家は禅宗だったけど、親戚は真言宗とか。。。
国によって、大乗とか小乗とか、
なんでこんなに違うんだろう、とか不思議に思ったりする。
お葬式や法事で唱えられるお経の意味が殆どわからないけど、
それは死んでからなら(?)お坊さんの唱えるお経の意味がわかるのかな、なんて。(苦笑)
先日、『ブッダのことば』という、
最初期のブッダの言葉を訳された中村元氏の本(岩波文庫)を手にして、
現代に伝わってきている仏教が、
全く初期の教えとは違ったものなのだということに驚き。。。
その中でブッダが繰り返し言っているのが、
この世の中に、肉体を持って二度と生まれ変わらないことこそが幸福、ということ。(!!)
この世の物質への執着や、愛情や憎しみなどをもたらす人間関係、家族愛、
欲する名誉や、人生での目標、喜び、美しいもの、五感を喜ばす様々なもの全てが、
永遠に繰り返される生まれ変わりを促すための『釣り針』である、と語っている。。。
その『釣り針』に引っかかるな、二度と母の腹から生まれ出るな、と何度も語っている。
そういうのも驚きで。。。
今の仏教でよく語られている現世利益はおろか、
来世利益とかそういうものをブッダは何も語ってない。
ひたすら心を整えよ、生まれ変わらないために、と。。。
世界の平和とか、他者の幸福とか、そういうことじゃなくて、
ただただ、一個人の心の有りよう、何ものにも執着しないことをひたすらに。。。
確かに、
一人一人が心を整えたときに平和がやってくるのかもしれないけれど。。。
のちに、仏教が伝わったときに、
何もかも、欲や名誉や物も執着も捨てよ、だと国が滅ぶと思ったのかな?
どんどん教えが変遷していったのだろうなあ。。。
今なんて国際ニュースを見ると、宗教色の強い国や人種ほど、
戦争にひた走っているのをみると、
『ブッダの言葉』を読むと頷けるものがある。。。
でも、すべての煩悩を滅するには、どれだけの瞑想と座禅が必要なのか、
考えるだけで果てしない。。。
煩悩や雑念、妄想(?!)の多い私には、遥か遠い話。。。
まだまだ読書中だけど、面白い!
ーーーーー
追記:
『ブッダのことば』の中の逸話に、
ブッダと問答をして感銘を受け、ブッダを師と呼ぶことにしたバラモンの男が、
普段、衆生のために食事を配る行いをしており、
ブッダの教えを頂いたお礼にと、ブッダに粥の入った器を差し出した。
ブッダはそれを受け取らず、
この世の真を説いた教えの対価として、その粥を受け取ることはできないと答える。
そしてそのように差し出した粥は、
この世に生きるものは何ものも食べることも受け取ることもできないものになった、という。
どうすれば良いのでしょう、とうろたえるバラモンの男に、
「生き物のいない場所へ捨てよ」という。
投げ捨てられた粥の鉢が煙をあげたのを見て、バラモンの男はブッダの足元にひれふした。
というようなエピソードが書かれてあった。
また他のエピソードに、
施しに礼をいうことは必要ない、
施す側がそれをすることで礼をしてもらおうと思うのは、
そこで施しの行為が汚れてしまうという。
淡々と施し、淡々と受けることがいいのだという。
インドのどこかの都市で大勢の人々にひたすら食事をふるまう映像を見たことがある。
何百人もの人への食事を朝早くから準備する、やはり何百人もの人々。
ひたすら野菜を切り、ひたすら鍋をかきまわし、
ひたすら食べ終わった皿を集めて、洗う。
食事を受ける人たちも、食事を配る人たちも、
ことさら礼を言い合うこともない。
それは普通のことで、その奉仕をすることが自分に必要な仕事だというように。
前に、東博へ行く途中、上野公園でホームレスの人達に炊き出しをしている集団を見たことがある。
炊き出しを求めて集まっていた人々を整列させて、
炊き出しへの感謝を求めていた様子を見て、すごく胸が痛くなった。
淡々と奉仕すること、それを淡々と受けることが、
どんなに清らかな行為となることかと、
本を読んで思った。。。
何か他愛もないことですら、感謝を欲しがっているような自分への戒めにしたい。。。。
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